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豊田で長崎への移住準備?デザインを学んで福祉の世界に?想いを叶えるため”越境”する生き方

インタビュー

夫婦で豊田市に住みフリーランスで仕事をしながら、いずれは両親がUターンした長崎県松浦市への移住を考えているという松永結実(まつながゆみ)さん。

愛知県と長崎県という離れたふたつの拠点でゆるやかなつながりを育む暮らし、『デザイン・編集』と『福祉』の分野をまたいで自分らしい働き方をする暮らしには、新しい生き方のヒントがあふれていた。

 

豊田市の街中に住み、長崎県への移住の準備をする

 

松永さんは生まれも育ちも名古屋市だ。父親の良二さんは18歳で生まれ育った長崎県松浦市を離れた。おもに東海地方で仕事をし、6年前に夫婦でUターン。現在は先祖代々が暮らしてきた土地の隣に、新しくカフェを建てて夫婦で営んでいる。


ご両親が営むガーデンカフェ柞(いす)の木

 

ご自身が長崎県で育ったわけではないが、子どもの頃から両親に連れられてたびたび帰省していた。自然豊かな環境に愛着がある。結婚してから夫婦で何度も帰省するうちに、ご主人もすっかり気に入ってしまったそうだ。

海と山のある長崎県松浦市の風景

 

移住を意識したのは「両親や母方の祖父母など、愛知県にいた親族がそろって九州に帰ったことが大きいかもしれません」と話す。両親は長崎県松浦市へUターンし、母方の祖父母も鹿児島県へ戻った。弟さんも九州で暮らしている。今も愛知県にいるのは松永さんと妹さんのふたりだけになった。

松永さんは両親を見ていて、「相続のことは、いつか必ず直面すること」と感じたそうだ。それならば今ここで、できることはないだろうかと考えた。移住に向けた準備として、田舎を知ること、仕事の経験を積んでおくこと、つながりを作ることなどを始めている。

 

豊田市と長崎県松浦市、両方の仕事をする 

 

松永さんはフリーランスのデザイナーとして、名古屋市周辺を拠点に活動してきた。また、ご主人が発達障がいを抱えていることから、福祉の分野での仕事にも10年以上携わってきた。

豊田市には、ご主人の仕事の関係で2020年に引っ越してきた。豊田市の山村地域を積極的に訪れ、つながりが生まれ始めている。

これまでの仕事の経験を活かして、足助地区にある「デイサービス型地域活動支援センター畦道」では、障がい(主に精神障がい)のある方に対して、自分の障がいとの付き合い方や、人とのかかわり方についてグループで分かち合うプログラムを月に2回行っている。

畦道の移転資金をクラウドファンディングで募るサイトは、松永さんが取材して文章を書いた。

また、両親が営むカフェでは、開業当初からお店のロゴデザインやウェブサイト、メニューデザイン、SNSの運営を手がけている。

そして、昨年末から長崎県松浦市にある『みやだデザイン合同会社』の仕事をリモートで受けている。ご縁が生まれたきっかけは、ご両親の営むカフェを松浦市の地域おこし協力隊だった宮田友香(みやだゆか)さんが取材したことだった。(その時の記事はコチラ

宮田さんはもともと福岡県出身のデザイナーだ。デザインのスキルを活かして松浦市のPRサイトを制作し、情報発信に力を入れて地域を活性化させるという仕事をしていた。帰省していたときにちょうど宮田さんがカフェを訪れ、同い年だったことやデザインという共通のテーマもあって意気投合。宮田さんは、松永さんのことを「いずれ松浦市を一緒に担っていく貴重な仲間」と思って、仕事を依頼してくれているのだそう。

豊田市の山村地域に通うなかで、「空き家問題」など共通の課題があることもわかった。

「豊田には、課題に取り組む方々や、様々なつながりがたくさんあって、本当に学ぶことが多いです」と話す。豊田市で発見したことを松浦市で活動する宮田さんにシェアしたり、松浦市の取り組みを豊田市で活動する人に紹介したりすることもある。

 

デザインを専攻したのち、福祉の世界に飛び込んだ理由

 

松永さんは現在、主に「デザイン」と、「福祉」というふたつの専門性を織り交ぜて仕事をしている。

子どもの頃から絵を描くことが好きで、名古屋芸術大学に進んだ。大学では、編集や企画、プロデュースなどを学ぶライフスタイルデザインコースを専攻。自分が作品を制作するよりも、「制作する人をサポートする」というスタンスが自分には合っていると感じたそう。

「前に立つ人をサポートする」というスタンスは、のちに福祉の世界に飛び込んだことともつながっていると感じている。

小さい頃は「学校という空間が苦手で、よく不登校になったりもしていました」と笑って話す松永さん。本を読んだり、空想や物思いにふけったり、考え事をしたりしている時間がとても好きだったそうだ。

大学を卒業後、様々な仕事を経験するなかで訪れた大きな転機は、卒業した母校で助手をしていた2011年頃のことだった。

メンタルの不調や、リーマンショックの影響による親の経済苦などを理由に、休学や退学をする学生が目立つようになった。助手として学生と関わったり、相談に乗ったりもしていた松永さんは「何かがおかしい」と、未経験だった福祉の世界に思い切って飛び込むことを決めた。

他にも、同じ時期に、転機となる出来事がいくつも重なった。

ご主人の父親が、脳出血で倒れ亡くなったことも、大きな出来事だった。ご主人に発達障がいがあるということはわかっていたが、そのお父さんも発達障がいの傾向があり、若いころからの無理がたたって早くから体調を崩していた。

「障がいがあることを否定したり命を削るほど無理をしたりしない、させない」「社会とも関わり折り合えるところを見つけながら、夫婦というチームで助け合って暮らしを作っていこう」と生き方の柱となる方向性が生まれた。

この出来事は松永さんにとって、障がいを抱える当事者の家族として、福祉の世界に飛び込む後押しとなった。

松永さんは、夫婦で仕事をすることもある。同じ名古屋芸術大学卒のご主人もフリーランスでデザインの仕事をしている。ご主人はWeb制作やイラストを、松永さんは紙媒体の制作や文字組みなどの編集を得意としていて、共同で制作した仕事もある。ご主人の抱える障がいゆえの得意分野と、松永さんの得意分野が補い合い、生かされ合っている。行政、大学、NPOなどの福祉関係の広報誌を一緒に手掛けたこともある。

 

「デザイン・編集」と「福祉」を越境する働き方

 

「デザイン・編集」の技術は、福祉の仕事で発達障がいの方を支援するときに、実はとても役立っている、と松永さんは話す。

具体的にはどういうことか。いくつかの例を挙げて説明してくれた。

福祉の仕事では、「就労支援施設」で働いてきた。関わる対象は発達障がいや精神障がいをもつ大人で、働くことに困難を抱えている人の相談にのったり、働きたいと考える人のサポートをしたりする場所だ。

そこで、相談に来た方と、その人その人に合わせた様々なやりとりをしていく。1日の時間の使い方を円グラフで振り返って一緒に生活リズムを見直すこともあったり、適性を見つめ直すサポートをしたりもする。その時に、相談者に合わせて使いやすいようにデザインされたワークシートを、オリジナルで作っていたそうだ。

「どんな図を入れて、どんなシートを作ったら、目の前の方がわかりやすくて使いやすいかと考えたときに、デザインがこんなにも役立つのかと感じました」と松永さんは話す。

また、それぞれが抱えている障がいは多様で、支援していくためには細やかに相手を知っていくことが必要になる。得意なことや不得意なことなどをひとつひとつ発見したり、組み合わせて理解を深めたりしていく際に、「編集」する技術を生かすことができると気づいたそうだ。

 

様々な仕事のなかで実感しているのは、『越境する』人の大切さだと松永さんは話す。

専門性を高めていくことは、三角形の山の頂上を目指すようなやり方にあたる。

「それももちろん本当に素晴らしいことですが、頂点に立てるのは全体のほんの一部の人なんです」

『越境する人』は、山の頂点ではなく裾野にいて、いくつもの山の間を行き来するような人のことだ。「違う専門性の間を行き来できる人が、すごく求められているなと感じています」と松永さんは話す。

 

子どもの頃から「フリーランス」が身近だった

 

松永さんは現在フリーランスで仕事をしている。「10年かけて夫婦でいろいろな働き方、役割分担を試してきました。現在はフリーランスで落ち着いています」と話す。

「フリーランスで働くのは不安じゃないですか?」「大変じゃないですか?」という質問には、「うちは親もフリーランスだったんです」と笑う。

父親は32歳で独立、開業した。電気工事士としてさまざまな建設現場の現場監督を担っていた。大名古屋ビルヂングの建設を最後に、59歳で事務所を閉め、長崎県へUターンした。

「家で、親から仕事の愚痴を一度も聞いたことがない」と話す。「必要だと感じたことは自ら学びに行き、自分に経験や技術を蓄積しながら、社会で役割を担う」という生き方が、子どもの頃から身近にあったと感じている。

仕事を通して多様でゆるやかなつながりを育み、豊田市の山村地域や松浦市のことにも仕事を通して関わっている。「仕事をする」ということが松永さんにとっては「生きること」と近い、とても自然なことなのかもしれない。

松永さんは、個人のホームページを持っていない。仕事はつながりのなかで依頼されることがほとんどなのだそうだ。これまで仕事や、身近な家族との生活をひとつひとつ丁寧に積み重ねてきた。そのなかで「既存のフレームに自分を合わせていくのではなく、自分の生きやすい在り方を軸に、できることを活かして、社会との接点を持ち続ける」ということを模索してきた。暮らしや仕事を通して、同じような価値観を持っている人との出会いも自然と生まれ、そのつながりから仕事の依頼を受けることが多い。

『ゆるくつながること』が、松永さんはとても大切だと感じている。『人とつながるのではなくて、目的や場でつながるという感覚』が、日本では少ない。それが生きづらさの背景にあるのではないか。これは以前、『うつ病の人が孤立するのを防ぐには』、というテーマで様々な立場の人が意見交換をしていた時に、1年の半分を海外で暮らす人から出た発言だった。

「目的や場でつながる」というのは、例えば、年1回だけ共通の趣味で顔を合わせる仲間など、いつも一緒にいたり深く関係を持ったわけではない仲間を、ゆるいつながりとして自分の財産にしていくという感覚だ。

「コロナ禍に入り、仕事をするなかで大きな転機があった」と明かす松永さん。

福祉の仕事を続けていくか悩み、臨床心理士のカウンセリングを受けたり、これからの仕事について信頼している人に相談したりと、ご自身のこれまでを深く見つめ直す時期があったそうだ。「そのときにも、価値観を共有しているゆるやかなつながりに大きく助けられました」と松永さんは話してくれた。

自分を見つめ直した今は、「悩みながら生きる同じ仲間のひとり」として、今までとは少し違う立場で支援の仕事に携わっている。

 

 

家族だけで守ってきた土地を解放する役割とは

 

今、日本各地で空き家の増加が問題になっているように、土地や家をどのように次の世代が受け継いでいくかということは全国的な課題といえるだろう。

そんななか松永さんは、自分たちに子どもがいないため、いずれは先祖代々の土地を血縁ではない人につないでいくことになるかもしれないということを、少しずつ考えている。

その土地では両親がカフェを営み、新しい人の流れが生まれている。両親はカフェの近くの山も購入し、訪れた人が散策したり景色を楽しめるようにと花や木を植えて整備しているそうだ。それもあって、「土地を血縁ではない人に開いていく」ということを考えてみたいと松永さんは今思っている。

松浦市の仕事を引き受ける中で、「文化的なことに子どもたちが触れられる場所がほしい」というニーズがあることもわかってきた。デザインを学んだ経験を活かし、移住後のなりわいとして、なにか自分にできることはないかと模索中だそうだ。「アート作品に触れられるギャラリーや、作家さんが作る日用品を気軽に購入できるお店を構想しています。豊田市ですでに活躍されている方にお話を伺って、新たに学びたいと思っているんです」と笑顔で話してくれた。

ふたつの拠点を行き来するなかでできることを模索しながら、新たな学びをかけ合わせる生き方に、わくわくする気持ちがこちらにも伝わってきた。

松永結実(まつながゆみ)さん 1983年名古屋市生まれ。名古屋芸術大学大学院デザイン研究科修了。いくつかの職種を経験したのち、大学助手として働いていた頃に「学生のメンタルヘルスの課題」を実感する。2012年に障害福祉分野へ転職。成人期の発達障害・精神疾患のある方の就労支援に携わる。2015年よりフリーランス。行政や民間の障害者支援機関、大学機関、メンタルクリニック等で発達障害者支援に関わりながら、教育・福祉に関するデザインの仕事(おもにロゴや冊子などの印刷物)と両軸で活動してきた。夫の転勤を機に2020年豊田市へ。「職住一体」の暮らし・働き方を模索中。

戸田育代

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豊田市の山村地域に夫婦で移住して11年。4人の子育て中。子どもたちと、野山や田んぼの広がるご近所を散歩することが好き。子どもの頃に海外に住んだことがきっかけ...

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