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子どもたちへの大人のまなざし【森のちいさなようちえんで育つ おおきな家族第5回】

コラム

今回は、森のたまごの保育の魅力である、「大人がどのような視点で子どもたちを見ているのか」についてお話したいと思います。

 

森のたまごでは、大人も子どももニックネームで呼び合っています。理由は、大人が何かを上から教える存在ではなく、いつも子どもと同じ目線で一緒に考え感じるため、そして子どもたちが「大人は味方」だということを感じて欲しいからです。そして、大人だろうが子どもだろうが、私たち1人ひとり個性があり、みんな違うということを感じ認め合うことが大切だと感じているからです。

 

森のたまごの保育で「固定観念・既成概念にとらわれない」ということをスタッフや保護者に言っています。自分もですが、物事を見るときに、観念や概念が邪魔をして、目の前で巻き起こっている子どもたちのケンカやいざこざを決めつけてしまわないように、いつも肝に銘じて保育に入ります。

 

さて今回は、このお母さんにバトンタッチです。


 

はじめまして。長男次男が森のたまごを卒園し、長女の在園中に夫の海外赴任による引っ越しで、今年7月からは森のたまごを遠くから応援しているOB母ゆうです。私が感じた森のたまごの大人の子どもへのまなざしについて書いていきたいと思います。

5年ほど前、第1子である長男の幼稚園探しをして、通える範囲の幼稚園を色々と見学に回りました。どの園に決めるか散々悩みましたが、最終的に森のたまごへの入園を決めました。自然の中で思い切り遊ぶことができるという魅力もありましたが、大きな理由は、森のたまごにいる大人の子どもたちへ向けた温かく芯のあるまなざしでした。

わが子が未就園児の当時通っていた、公園や支援センターでは、「順番だからね」、「10数えたら交代よ」、「かーしーてって言おうね」、「ほら、あの子が使いたいみたいだから貸してあげようね」と、子どもが行動する前に、大人からの声が多く聞こえていました。

どれも子どもがお友だちと上手に関われるようにと思っての大人の導きだったと思います。

 

しかし、森のたまごに見学に行った時、そこにいる大人は子どもたちのことを側で静かに見守り過ごしていました。

子どもたちの遊びや揉めごとにも口を挟むことなく成りゆきを見守る大人は、放置とは違って子どもたちを信じた芯のあるまなざしを向けていました。

大人が口を出さないからといって子どもたちの揉めごとは収集がつかない訳ではなく、存分に感情を味わって自分たちで終わりをつくっている様子でした。

そんな姿に惹かれたことをよく覚えています。

 

 

 

森のたまごの1日は、朝の会から始まり、子どもたち一人一人がみんなに聞いて欲しいことや今日やりたいことを伝え合います。その後は、帰りの会の時間まで決められたカリキュラムはありません。その中で大切にしていることの一つは、大人が声に出して導いていくのではなく、子どもたちが自分で感じ考え体験することです。

 

大人の指示的な関わりのない中、子どもたちは自分の頭で工夫したり、自分の心で決断したりする場面が所々であります。

 

例えば、自分には少し怖いと思う斜面の崖や高い所にあるターザンロープを前にして、一斉保育のように「さぁみんなでやりましょう!」と促すことなく、自分のタイミングで挑戦をします。とりあえずやってみようという子は、失敗を恐れず挑戦していき、少し慎重な子は自分ができると思うタイミングまで他の子の様子を観察しています。

そんな子は、よくやり方を観察していたなぁと思えるくらいすっとできたり、頭ではわかっていてもそれと同じようには身体が動かず悔しさを味わったり。もちろんその中でやらない選択も認められます。自分のタイミングで挑戦する子どもたちの成功も失敗も、やらない決断を含めその子自身を認めてくれる大人がそこに寄り添っています。

水場での活動・雨の日の活動では、子どもたちは全身ずぶ濡れにして遊びます。遊びに夢中になった後、濡れた服を着ているのが気持ち悪いと泣いていた年少の子。「濡れてるからさぁ着替えて!」ではなく、「気持ち悪いねぇ(じゃぁあなたはどうしたいのかな?)」と寄り添います。まるで遊んで楽しかった気持ちも濡れて気持ち悪い気持ちも認めてもらっているようでした。その子がいくら泣いても自然の中は泣き声を受け止めてくれます。(そのおかげで大人も温かい気持ちで見守れるのかもしれません。)

濡れて泣いていることがあっても着替えることを選択する子もいれば、泣いていたのがウソみたいに濡れたまま他の遊びに夢中になる子もいます。

わが家の子どもたちは、感覚過敏気味な長男は遊びたいけれど濡れた服は苦手で、いつの頃だったか自分のリュックの着替えの枚数をきちんと把握して、活動場所によっては自分から多めに着替えを準備していました。次男は水の中の生き物探しの時は特に着替えが足りなくなっていましたが気にせず、びしょ濡れた状態でのお迎えがよくありました。

気持ち悪いなら入らなければ良いのに、着替えもないのにまた川に入って……などと否定される事なく、それぞれの姿をその子らしいと沢山の大人に認めてもらいました。「遊びたいから着替えがあったほうがいい」、「生き物が探せるなら濡れていることぐらい問題ない」。画一的な関わりがない場面では、まるで子どもたち自身が自分のことをよく理解し、自分にとってより良い選択をすることができているようでした。それはこれからのその子にとって、とても大切なことなのではないかと感じました。

 

森のたまごの活動は野外の自然の中ということで、便利なものがすぐ近くにあるわけではありません。ですが、設定保育のような大人からの準備や声掛けがなくとも、焚き火でできた炭をクレヨン代わりに、蔓性の植物をヒモにする、どの植物で色水を作ることができるかを子どもたちは知っています。そして子どもたちの様子を見守り、立ち上げ当初の代表の想い『必要な時には大人からの知恵のエッセンス』・・・竹をナイフで削りシャベルをつくり、蔓を編んでカゴを作ってみせる。子どもたちは今ある状態から工夫次第で問題を解決することができると体感しています。

 

高い所にいるクワガタや木の実をとるために、誰が台になり、どのタイミングで長い棒を渡すか、みんなで話し合い、失敗しながら時間をかけて調整していく子どもたち。捕まえたい虫が目の前にいるのに虫アミを忘れたと泣いていた子は、二手に分かれた枝にクモの巣を絡み付けると網代わりになると試してみたり、太いツルで網を作ろうと試してみて・・・、結局最後はたくましく素手で捕まえにいく(大人の一言を入れてしまったら結果は違ったのではないかと思います)。子どもたちは自分たちで気持ちも問題も乗り越えていく経験を日々しています。それはこの先彼らがぶつかる何かを乗り越えるための土台になるのではないかと感じました。

 

息子たちは小学生になり、彼らの学校での生活を側で見守ることはなくなりましたが、「こんな風に困ったからこうした!」という話を聞く度に、風や土を感じながら泣いたり怒っていたりしていたあの時の姿を思い出しています。

 

保育に入ったばかりの頃は、子どもたちの怒りや悲しみ、悔しさ、挫折や喧嘩を見守るのに自分も胸が苦しくなり、励ましたり慰めたり仲裁してあげたいという気持ちになっていました。しかし、卒園までの子どもたちの成長をみていると、どれも子どもたち自身が向き合っても良いもの、向き合うことのできるものだと感じるようになりました。そして子どもたちは自分で感じて考える力があるのだと。

 

我が子の卒園まで当番で保育に入り、自分が思える必要な声掛けのタイミングを考え悩み、子育てを共有する仲間と意見を交わすことでたくさんの学びと発見がありました。そして母である私自身も子どもたちと同じようにたくさん認めてもらいました。わが子だけの子育てでは味わうことができなかったことじゃないかと思います。

大人も子どもも育ち合い・・・・入園前の私だったら、わが子の少し先に目を向けて、心配してどうにかしてあげたいと考えていたかもしれませんが、たくさんの人がつくってくれた森のたまごとの出逢いを通して、子どもたちの「今」に「大丈夫だよ」とまなざしを向けたいという気持ちでいます。

子どもたちは豊かな自然の中で、時間の枠組みを感じずに、森のたまごの仲間とたっぷり遊び成長しました。『子ども同士の関わり、時間を大切にし、満足感や、達成感をたくさん味わってほしい。大人たちは少し口を閉じ、子どもたちが何をどう選ぶのかそっと見守り、必要な時には知恵のエッセンス』・・・

この言葉が、大人たちの子どもへのまなざしだと実感しました。

 

縁側編集部

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