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何があっても生きていけるように|おじいちゃん、おばあちゃん、わたしもガラ紡やります!第5回

コラム

水車が動力だったガラ紡糸には、里山のぬくもりがぎゅっとつまっています。その里山、松平になぜ名古屋から移り住んだのか。きっかけは、東日本大震災です。岩手県宮古市で震災支援した際に、赤ちゃんが救われた話をきき、私の人生観が揺さぶられました。

 

東日本大震災 いのちのリレー

Sさんが女の子を出産したのは、2011年3月11日午後2時19分。宮古市沿岸にある病院です。その27分後、大きな揺れが襲いました。津波が2Fの分娩室まで迫り、Sさん家族はじめ病院にいるもの全員が屋上へ。筆舌に尽くしがたい惨状が目の前に広がりました。病院では産後ケアができず、Sさん夫妻はわが子とともに帰宅を決意。自宅は被災をまぬがれたものの、ライフラインはとまっていました。Sさんは紫色の赤ちゃんを寒さから守っていました。

翌日、Sさんの夫は動揺しながら地元の生協店舗へ。震災のために開店が大幅に遅れていました。行列のなか、動揺を隠せないSさんに声をかけたのは、同じく並んでいたOさんでした。Oさんは赤ちゃんの状態を知り、驚き、すぐにSさん夫妻と赤ちゃんを自宅へ連れていきました。

幸い、Oさんの家には薪ストーブがありました。すぐにお湯を沸かして、赤ちゃんを産湯へ。まだへその緒がついていました。体がさくら色にかわり、気持よさそうな顔になりました。電気・ガスのライフラインがとまっているなか、薪ストーブがどれほどあたたかなものだったでしょう。

 

未曽有の地震と津波のなかで、つながれたいのち。同じ局面に出くわしたとき、私に生き抜く力はあるのだろうか。親として娘に何をどう伝えていくのか。私のなかで何かがうごめきましたが、まだぼんやりとしていました。

 

自然との向き合い方

 

悶々としていた頃、東日本大震災のラジオ特集番組で「釜石の奇跡」を知りました。釜石市では、小学生約3,000人のうち99.8パーセントが津波から避難し無事でした。釜石で防災教育を続けてきた片田敏孝・群馬大学教授(当時)は、
「①想定にとらわれるな。②最善を尽くせ。③率先避難者たれ。この避難三原則を教えてきた。自然に近づき、海の恵みをうけるためには、必然的に災い(津波)に付きあわざるをえない。それが、自然のなかで生きるものの作法だ」と話していました。

この番組をきき、気持ちがはっきりしました。私が大事にしたいことは、何よりもいのちの重みを真ん中に日々営む、自然のなかで生かされている気持ちをもつ、どんな場面に遭遇しても仲間と生き抜く。しかし、頭だけの知識で身につくはずはありません。

 

荒れる里山に心痛めて

 

そんなとき、私は叔父から相談をうけました。祖父母が亡くなってから、叔父一人の、松平での里山生活は厳しく、仕方なく住まいとガラ紡工場を更地にして街へ移りました。それでも代々の土地や山林維持から逃れられません。山林は地域で共同管理をしており「わしに何かあったら、自治区に申し訳ない」と悩んでいました。  

全国でも里山や農地が維持できずに、荒れがすすんでいます。「このまま松平の里山も荒れてしまうのか」と私は胸を痛めました。

私にとって松平の里山は、幼いころから親しみがあります。大給(おぎゅう)城址からの見晴らしは良く、水車のあったガラ紡工場の風景を愛する方々もいらっしゃいます。

ふっと、私に舞い降りてきたものがありました。

「私が松平に住むことができるのではないか。自然のなかで生きる作法を娘と一緒に身につけられるのではないか。里山とガラ紡の価値を伝えられるのではないか」の決意を胸に、叔父や家族を説得。2年の準備を経て、薪ストーブを設置した家を建て、娘の小学校入学と当時に移り住みました。

 

不安の正体は

 

移住準備と同時に通った「豊森なりわい塾」。若者やファミリー世代も参加しており、里山への移住希望が著しく増えていると実感しました。

移住希望者には、都市で安定した仕事に就いていても、将来への得体の知れない不安が共通していました。その正体について「今の暮らしは、自分の実感と離れた力が働いており、自信が持てない。だからお金を稼ぐのに依存してしまう」、「これからの幸せのためには安心感が必要で、生活を自給する力を身につけたい」、「地域の中での役割や居場所があって役立っている実感があり、楽しく過ごす仲間が必要」など、塾生の仲間と話し合いました。

 

 

「よそ者の力を頼りたい」

 

私は当時、名古屋市内のマンション7Fに住んでいました。土に足がつくことなく、空中に住む感覚に、急に不安を覚えました。食べ物はじめ生活にかかわるものは、ほとんどお金を出して購入。近所のつながりは、娘をとおした知り合った親どうしぐらい。匿名性の高い都会暮らしは、疑心暗鬼がつきものでした。

一方、中山間地の課題も、豊森なりわい塾で知りました。若者は高校から街なかへ進学して、そのまま都心で働き続けて戻らないという流れは当然のようになっていました。過疎化と高齢化がすすみ、集落の維持管理ができなくなっていました。

「わしらの地域が元気になるには、街に住むよそものの力を頼りたい」という旭地区のみなさんの思いは切実でした。

都市は都市、中山間地は中山間地という枠では限界がきています。移住がすすまなくても、都市と中山間地が共生できるモデルづくりが必要だと感じました。

 

次の時代の地域モデル

 

私は労働運動に長く身を置いてきました。格差社会のなかで働き方や暮らしの矛盾に根幹から向き合ってきました。

正社員であっても多忙のために自分と家族のための時間がもてなくなっています。非正規や派遣労働の増加で、雇用と賃金が不安定になり貧困が広がっています。「無縁社会」とよばれるほど、日常の関係性が乏しくなっています。

新聞配達と日中業務を掛け持ちして、新聞配達が休みのときに夜勤をするシングルマザーのパート労働者。コロナを理由に、正社員を守るために解雇された派遣社員。減産を理由に突然契約が打ち切られて、寮を追い出された外国人労働者…。頭がくらくらする実態が、年々広がっています。

人がその人らしく生きていくためには、お金も時間も「ゆとり」が必要です。それが社会的にも精神的にも安心につながります。しかし、「ゆとり」が十分にえられないために、働くものに相当な労力が求められ、なかには心も体が病んでしまうこともあります。そんな不安感から逃れ、今の働き方や生き方に異議を発するかのように「生きる手ごたえがほしい」と移住を希望する例もききます。

都会からの移住者が気持ちよく受け入れられるためには、中山間地に根強くある「血縁と地縁の関係」を乗り越えた、新たな関係の構築が必要だと感じています。東日本大震災をきっかけにした私の里山暮らしは、格差社会の先にある「次の時代の価値観と社会モデルづくり」につなげたいと思っています。

 

何があっても生きていける力を

 

豊森なりわい塾で、仲間が紹介してくれた詩が、私の胸を打ちました。

これで十分  ナナオ・サカキ

足に土  手に斧  目に花  耳に鳥  鼻に茸  

口にほほえみ  胸に歌  肌に汗  心に風  これで十分

 

知識だけでなく、手足をつかって五感をフルにいかした暮らしは、「自ずから生きる力になる」と実感しています。休耕田を畑にしたり、薪を近くの山から手に入れたりしながら、里山のめぐみに感謝する日々です。ガラ紡で綿から糸を紡ぎ、松平の地域資源に目を向け、「何があっても生きていける力」を、つながりを通じて培っていきたいです。

野々山大輔

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1971年生まれ。2014年に名古屋から松平地区へ移住。明治時代より続いたガラ紡工場の孫(工場は2000年に廃業)。大給城址のふもとで里山暮らしをしつつ、ブ...

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