生業はひとつじゃなくていい。無職で移住し、多業家になった浅野さんの実践ストーリー

インタビュー

2016 年 7 月 17 日、豊田市旭地区で開催された夏のイベント「おいでんあさひ風鈴まつり」。毎年恒例の催しだが、この日は少し様子が違う。どこを見ても、道行く人が着ているのは、色違いのお揃いの T シャツ。真ん中には「we love ASAHI」の文字と、地区のシンボルキャラクター「コッキー」、それを取り囲むように、しだれ桃、花火、鮎、自然薯などのイラストが描かれている。

老若男女の T シャツ姿を、驚きの表情で眺めていたのが、「We Love ASAHI T シャツ」シリーズの販売を手掛ける浅野陽介(あさの・ようすけ)さんだ。2016 年 2 月の発売当初から 2020 年 3 月現在までに、人口約 2600 人の地区で、自らが企画したこのTシャツ 1800枚強を売り上げた。

浅野さんはいくつもの仕事をかけ持つ多業家。イベントでの音響、デザイン、グッズ・ノベルティ制作やホームページ作成の仕事をするかたわら、観光協会でも働いている。

2015 年、名古屋市から旭地区に単身で移住してきた当時は、無職だった。2019 年結婚、今年の初めに赤ちゃんが生まれ 3 人家族となり、多業家として働く。未開の地だった移住先が、故郷のような大切な土地になりつつある。この人生の変化はどのようにして起きたのだろうか。

Photo:佐伯朋美

模索し続けて

たどり着いた

お寺での暮らし

話を伺ったのは、旭地区にある廃校を活用した施設「つくラッセル」

浅野さんが育ったのは、岐阜県武儀郡武芸川町(現・関市)という人口約 6000 人の田舎まち。学生時代は京都で過ごした。卒業後、そのまま京都で就職すると、待っていたのは厳しい現実だった。

「終電に駆け込むか、会社で夜を明かして始発で帰り、シャワーを浴びてまた出社するような毎日でした。品物の動作試験、出荷、クレームの電話対応、全国への設置作業まで全てをこなしました。2 年目頃から出荷業務のリーダーになり、充実しつつも忙殺される日々でした。一体何やってるんだろうなぁ、そんな気持ちになっていました」

他の生き方に目が向いた。京都府綾部市に在住の塩見直紀氏が提唱する半農半 X。自分と家族が食べるだけの食料をまかなうだけの農業と、自分のやりたいこと X を組み合わせるライフスタイルだ。綾部市へのツアーに参加してみたり、兵庫県丹波篠山市の移住者に会いに行ったりした。

2 年 5 か月働いた後、多忙な日々に見切りをつけ退職した。内容に感銘を受けた本「ナリワイをつくる:人生を盗まれない働き方」(東京書籍)の著者である伊藤洋志さんの講座に参加すると、本人と連絡が取り合える仲になった。伊藤さんが主催する「モンゴル武者修行」というモンゴル現地でのワークショップのため、海を渡った。帰国後、さぁ、いよいよ自分の事業や活動をスタートする心の準備が整ったか…と思いきや、そうはならなかった。

「自分で何か始めてみたい気持ちはありました。やりたいことをやる生き方、いいなぁ。でも実際、何ができる?できるわけねーだろと。もやもやして色々動いていたら、生活資金が尽きてきた。仕事を辞めて 3 か月後、また働くことにしました」

「うちに来ないか」と誘われた名古屋市内の転職先。会社の雰囲気になじめない。無理に合わせようとして徐々に違和感が募ってきた。移住したいと相談していた友人がある日教えてくれたのが、豊森なりわい塾だった。

「豊田市の旭地区をフィールドに、これからの生き方や働き方を他の塾生と一緒に学べるのが豊森なりわい塾だと聞いて、2015 年 5 月から始まる 5 期を受講することにしました。同時に、移住するには独身の今がチャンスかもしれないと感じ始めました。先のことについてはノープランでしたが、ひとまず退職することを決めました」

講座が始まって間もなく、「移住したい」と表明することにした。塾生仲間や、事務局から何か手がかりがつかめるかもしれない。すると、同じ 5 期生のひとり坂部友隆さんが「福蔵寺はどうだろう」と声を掛けてくれた。そのお寺の管理者は、2011 年 3 月に旭地区に移住して、地域をつなぐ事業を数々手掛ける戸田友介さん。戸田さんの会社㈱M-easy の社宅が福蔵寺だった。

「坂部さんは豊田市で都市と山村の交流コーディネートをするおいでん・さんそんセンターに勤めていて、仕事の関係で福蔵寺のことを知っていました。移住者が暮らしていると聞き、早速見に行きました。その時はあいにく皆さん不在にしていて誰もいませんでしたが雰囲気はわかりました(笑)名古屋市で暮らしていた時には、隣に誰が住んでいるのかわからなかった。せっかく移住するなら、人とのつながりがないと面白くないと思っていたので、お寺に住めると思うとワクワクしました」

もう動くしかなかった。その後戸田さんに連絡してみると、「いいよ」と返事が来た。

「僕より前に移住して活躍している人がいることを知っていたので、受け入れてもらえる土地だという安心感はありました。でも、どちらかと言えば、旭に来たかったというよりは、僕の都会からの逃げ場だという感覚が強かったかな」と振り返る。

車に入るだけの荷物を詰め込んで、引っ越してきたのは、2015 年 10 月のことだった。

 

アルバイト生活から

軽やかに個人事業主になった

貯金ゼロ。人間関係もこれから。白紙からのスタートとなった旭地区での暮らしは、新聞配達から始まった。加えて、戸田さんが関係するプロジェクトを手伝うようになる。

「旭地区は、2011 年から森と地域を元気にする木の駅プロジェクトに取り組んでいます。山主さんが体力と時間に無理ない範囲で自分の山から木を伐り出すと、それがモリ券という地域通貨に交換してもらえて、旭地区内の商店で使える仕組みです。僕はこの事務局として、商店の換金をやるようになりました」

木の駅プロジェクトから派生した「あさひ薪研」で、街への薪配達も始めた。当面の生活資金を心配する必要はなくなったがアルバイトばかりで稼ぐことにモヤモヤを感じてきた。

「ある日、戸田さんとトラックで薪配達に出掛けた時に相談をしてみました。開業届の紙 1枚を出すだけで簡単だから個人事業主になってみたら、と言われてその気になりました」

でも何ができるのか。思い浮かんだのは、自分が好きなことだった。大学時代所属していた放送部。授業に出ることも忘れるほど熱中していた音響の面白さ。会社勤めしていた時、ふと思い出すこともあったがやれる機会はなかった。

「仕事になるのかはわからない。技術的にもそんなに自信はない。でもやってみたいと、イベントで音響の仕事を受けるアサノエンタープライズを立ち上げました。移住してわずか 2 か月ちょっとのタイミングだったので、今思えばテンションが高かったですね。銀行からの信用があった訳ではなく、補助金申請するほどの事業計画を立てる気にもならず、機材をカードローンで買いました。100 万円近く掛かりました」

自分の事業を立ち上げてみたはいいが、仕事がすぐに来るわけではない。でもローンは返さなくてはいけない。新聞配達を頑張っていけば何とかなるだろうという楽観さと、どうにかしなければという焦りが交互にやってきた。

 

ローカル密着Tシャツの

誕生秘話

そんなある日、お寺の居間で友人と談笑していると、一枚のイラストが目に留まった。

「ネコがお茶の載ったお盆を持っていて、“お茶のみゃ~”と文字が添えてありました。お寺に遊びに来た人が描いて帰ったそのイラストがとても可愛くて、 T シャツにしてみようと盛り上がりました」

1 枚だけ発注して出来てきたそのシャツを眺めていると、浅野さんの中にあるアイデアが沸いてきた。冒頭でご紹介した「we love ASAHI T シャツ」だ。

「移住する前から、地域のお土産になるようなものがあるといいなと感じていました。旭には自慢できるモノやコトが色々あります。それが描かれた T シャツを作って、皆さんとお揃いのものを僕も着て、旭の一員だという感覚を共有してみたかった。イラストを自分で描いて、まずは 30 着ほど作ってみました」

「隔週金曜日の夜、お寺に集まって歌の練習をしていた「山里合唱団こだま」のメンバーに披露すると、10 数人が注文してくれました。半ば無理やりだったかもしれませんが(笑)」

そこからの広がり方は、まったく予想外だった。あるメンバーが T シャツを着てこども園の迎えに行くと、園長先生が気に入り注文が入った。噂を聞きつけた豊田市役所旭支所の支所長から、夏のクールビスの服として採用したい、と連絡が来た。地域の老人福祉センターぬくもりの里の支所長からも注文が入り、その後オリジナルの制服を作ってほしいという話になった。

郵便局からも、小学校からも、交流館からも欲しいという声が掛かった。2016 年 5 月には新聞の豊田版にも掲載された。そこから1~2か月で爆発的に売れ、旭地区なら、どこにいっても誰かが「we love ASAHI Tシャツ」を着ているという状況になった。

老人福祉センターぬくもりの里では、職員の制服として採用されている

旭交流館では、職員の皆さんがブルゾンを愛用している

「少しずつでも広がっていけばいいなと思っていたので、まさかこんなことになるとは思ってもみませんでした。Tシャツのアイデアで、アサノエンタープライズの収益が上がった。しかも、地域の方たちが着てくれて嬉しいし、Tシャツを通じて知り合いになる人も増えました。新たにデザインやチラシの仕事も入ってきました」

 

心配性な性分が

新しい道を開く

波に乗ってきた浅野さんは、更なる展開を求めて新しいチャレンジをする。見込みのあるビジネスプランに対して愛知県・地元市町村から資金や指導などのサポートが受けられる「三河の山里起業実践者」に応募した。

「僕のように移住してみたい人が気軽にお試し居住できるような場所を作りたい。空き家になった旅館を、移住希望者向けのシェアハウスとして生まれ変わらせる事業案で応募し、受かりました。順調にいくかと思いきや、難航。資金の支援を受けていたので何とか形にしなければというプレッシャーがあったのですが、結局色々な条件が合わず、1 年後、期間が終了しても実現しませんでした」

気持ちを注いできたことが、形にならなかったことに、意気消沈した。自らを省みてみると、音響の仕事は軌道に乗ったとは言い難い状況。Tシャツだって同じ調子で売れ続ける訳ではないだろう…。しかし地域のことを日頃から良く見ている浅野さん。誰かの困りごとを黙って見ていられない性格が、自分自身の新しい道を切り開いていくことになる。

「旭木の駅プロジェクトの関係で、旭観光協会に時々出入りしていました。2 万人くらいが訪れる観光地上中のしだれ桃のシーズンをこれから迎えようという時期に若いスタッフが辞めたと聞いて、心配になっちゃったんですよね(笑)。2 人の職員だけでは大変だろう、僕も手伝います、ということがきっかけで職員として入ることになりました」

「観光協会で働くようになったことが本当に良かった。地元のことがもっと見えてきました。どんな組織があって、誰がイベントをやっているのか。そのイベントを実行するのにどんな申請が必要で、どうやって色んなことが回っているのかわかるようになりました。新たな方と知り合うことでアサノエンタープライズの仕事も、もらえるようになりました」

会長の鈴木正晴さんは浅野さんのことを「目配り、気配りが行き届いているし、先を見通して必要な提案をしてくれる」と話す(撮影場所は旭観光協会ロビー)

気負わず

自分に正直に生きる

移住してきてから、良い時もあれば、うまくいかない時もあった。それでも、街に働きに出ることをせず、旭地区をベースに働き、地元の人からの信頼を次の仕事につなげ続けられたのは、なぜだろう。

「地元で働いているのは、多分必然です。本当のことを言えば、移住が決まった時は、豊田市には大手自動車メーカーがあるし、いざとなったら期間工をやればいい、という気持ちもありました。でも実際に来てみると、新聞配達も他の仕事も旭地区を拠点としていた。その後、疲れた状態で街に働きに出られません(笑)それに、旭で知り合いが増えれば増えるほど、地元のために何かしたいと思うようになってきました」

「いかに地元の方に受け入れられるか、ということは、ずっと意識してきました。『独身の若い男性がお寺に住み始めて、新聞配達や自分の事業をやっているらしい』というのは、家族がいて、企業に勤めている人が移り住んできた場合と比べて信用や安心感が低い。もし第一印象が悪ければ、それが自分の評価になり、噂が広まって定着するかもしれない。地域の人と接するときには、笑顔を心掛ける、頼まれたら断らない、興味を持つ、そんなことを心掛けてきました」

浅野さんは、豊森なりわい塾の修了時、「X年後の自分を描いてみる」というお題について、
60 年後の自分の姿を、こう描いていた。 

時は 2076 年。浅野陽介、87 歳。秋の日のこと。
―「良い人生だった」
深い充足感と幸福感に満ちた心。
自宅で息を引き取ろうとしている。
自然と家族、友だち、地域の仲間が集まってきている。
みんな僕の最期を悲しんでいるが、僕の満足そうな顔に心温まる思いでいる。

27 歳で旭地区に移住してから
僕は自分の心の声に耳を傾け、背かず生きることを心掛けてきた。

2018 年 10 月、妻・恵美子さんと結婚。2020 年の初めには第一子が誕生した。移住した地で人間関係を築き、仕事を作り、新しい家族ができた。まるで着々と、思い描いた最期の日に向かっているようではないか。今これを読んで、どんな気持ちでいるのだろう。

2019 年 4 月、つくラッセルの体育館で行った結婚披露パーティには、地域住民など 180 人が 二人の門出を祝った

「旭で息を引き取る。移住当初そんな覚悟があったわけではないですよ(笑)でも書けば現実になるかなって思いもありました。ここで働き、暮らす日々の中では、うまくいかないこともあるし、根詰めちゃうこともよくあります。でも、できる限り気負わずマイペースに、楽しくやっていきたい。それを重ねていけば、もしかして描いた未来の通りになるかもしれませんね」

浅野陽介(あさの・ようすけ)岐阜県武儀郡武芸川町(現・関市)育ち。大学卒業後、会社勤めを経て2015年5月から翌3月まで豊森なりわい塾5期受講。2015年10月に豊田市旭地区に移住、個人事業としてアサノエンタープライズを立ち上げる(現在は合同会社)。イベントでの音響を中心としながら、デザイン、グッズ、ノベルティ制作、ホームページ作成などの仕事もする。2017 年 2 月からは旭観光協会でも働く。現在、旭地区の様々な情報を次世代に引き継ごうとデジタルアーカイブ事業に着手している。

writer

きうらゆか

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1979年生まれ。2014年、夫のUターンに伴って豊田市山村地域・旭地区に移り住む。女性の山里暮らしを紹介した冊子「里co」ライター、おいでん・さんそんセン...

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