持ち続けた一流のプロ意識。足助最後の芸者、後藤さんの歩んできた道

インタビュー

大正、昭和期に高級料亭として名を馳せた寿ゞ家(すずや)。平成23年、重要伝統的建造物群保存地区に選定された足助の古い町並みのメイン通りから小路を入ったところにある。長年空き家で廃墟同然だったが、近年市民の手で再生された。

玄関をくぐり、飴色になった急な階段をのぼる。ぱあっと、目に光が飛び込む。広がるのは30畳の大広間。

 

ここのお部屋もよう使わせてもらって。舞台で踊ったこともある。なかなかいい料理屋さんだったよ。いいお客さんが入って。宴会が多くて。

目を細めてそう話すのは、後藤久子さん。後藤さんは、修行時代を経て21歳から足助で芸の道を歩み続けてきた。「塩の道」、「中馬街道」と呼ばれ江戸時代から物資の輸送路として栄えてきた足助の町。明治末期から芸者が存在していたと言われ、昭和20年代には70名ほどがいたと記録されている。

 

ところで芸者と聞いて、どんなイメージを持つだろう。もしかすると性的サービスに従事する娼妓(遊女)と同じように理解している方もいるかもしれない。しかし両者はまったく別の存在。芸者は文字通り、三味線や踊り、長唄などの芸をしてお座敷を盛り上げる。

職業として、生計をたてるための芸者。この生き方を貫き通した後藤さんはどんなことを経験し、何を想うのか。その人生を伺った。

(以下、後藤さんの言葉にある『芸子』は『芸者』のこと)

 

厳しい下働き時代、「やっぱり芸ができないといかん」

 

昭和10年に足助で生まれた後藤さん。電気関係の会社で働いていた父が転勤するのに伴い、母、ふたりの兄と満州へ行った。終戦になったのは小学3年生の時。その翌年、引き揚げ命令が出た。

窓がないようなおんぼろ汽車に九州から乗ってきてね。今思い出すのは、岡崎の駅について「引揚者のみなさんご苦労さん」って、降りたのがわたしたち家族5人だけ。足助までバスがなくてね。駅長さんが手配してくれて、木炭バスに乗って帰ってきた。

 

家の事情で、母と2人で岡崎に行くことになり、岡崎の中学に転校した。その時に三味線を習っていたことがきっかけとなり、卒業後、半田の置屋(おきや)で修行を始める。置屋とは、芸者が共同生活を送りながら三味線や踊りの稽古に励む場のこと。芸のほかにも、着物の着せ方を覚え、芸者としてお座敷に出る“お姉さん”たちのお世話をし、置屋のおかみさんの代わりに打てるようにと麻雀、花札、トランプを仕込まれ、水仕事以外の掃除をした。

三味線の稽古しとるとね、足が痺れちゃうでしょ。ちょっと足をずらすとね、後ろからその足をぎゅっと踏んでかれるの。それでびっくりして、もう2度とやらない。電話の切り方も練習した。「ありがとう」とは言わないの。「おおきに」と言う。なかなか言われなくて叱られてね。おかみさんが帰ってくると、障子の桟をスッと触って「今日掃除したの?」って。そういう時代があって初めて芸子さんになれる。下働きの時「やっぱり芸ができないといかん」。自分にそう思った。

 

 

18歳で芸者としてお座敷にあがるようになった。客が芸者を呼ぶ花代(料金)は、宴会のある料亭や旅館、芸者の所属する置屋、置屋を統括する検番(場所によってはない場合も)、芸者で分配される。そのため芸者の取り分はわずかだった。後藤さんは親に仕送りし、余ったお金を髪結代、着物代に充てていた。

 

終戦後でしょ。引き揚げてきて、親も働くところを見つけなきゃいけない。芸子さんになれば収入があるじゃん。親に仕送りしなきゃいかんもんね。お座敷のことは何も教えてもらわなくていきなりデビューだもんで、ちょっとの間わからんで踊っちゃうっていうこともあったね。

 

半田はお酒や酢を醸造する会社で栄えていた。宴会が多く、たくさんの芸者がいた。後藤さんはいちばん歳が若く、三味線が弾けたために重宝がられた。

 

優秀になれば、他の芸子さんからの見る目が違ってくるもん。負けちゃしょうがないよということで。そういう気持ちがないと女の世界では務まらない。

 

いかに名前を覚えてもらうか

 

21歳の時、知り合いがやっていた『市松』という置屋から声がかかり、足助に戻ってきた。当時昭和30年代、足助全体で30人ほどの芸者がいた。


置屋の人たちと。向かって左端が後藤さん

 

山林関係の仕事をする人、消防団など地域のお客さんの他、知事や国会議員などの席に呼ばれることもあったという。ひとつの宴会はだいたい2時間くらい。あいさつをして座敷に入っていき、お酌をする。20~30分くらいすると、三味線を弾き、踊りを踊る。芸ができるのはもちろん、『いかに隅々まで気を配れるかどうか』が要だった。

宴会では、いちばん偉い人が前の方の真ん中に座られて、そこへ同席の方たちが接待しにいく訳でしょ。政治のこととか色々話がある。その偉い人は酔っ払って余計なことをおしゃべりしちゃいかんでしょ。そういうのを見とって采配するじゃん。徳利にお茶入れてもらって、首のところに紙のこよりで印をつけとく。若い芸子さんに「あの方にはこれを注いでね」と言う。そうすると、「あの芸子さん、機転が聞くな」と思ってもらえるわけじゃない。そういうふうにお客さんの印象に残るようにして名を売った。

 

現在、紅葉の時期に全国から多くの観光客が訪れる名所、香嵐渓。芸者は香嵐渓の宣伝にも一役買っていた。広場に演舞場があり、観光の時期は1ヶ月間、毎週日曜日に芸者たちが踊っていた。その出番が終わった後、お座敷に向かったという。

 

 

昭和31年頃の香嵐渓

 

昭和31年には、名古屋までマイクロバスで出かけて宣伝をした。

 

愛知県庁と、新聞社と、テレビ塔の下と、熱田神宮も行ったかな。香嵐渓音頭や足助音頭を披露してきた。まだ道が土埃でいっぱいだった時。県庁では、足助の衆が来るって建物の窓からみんなに覗かれてね。気持ちよかったよ。

 

テレビ塔での香嵐渓宣伝

 

経営者になり、苦労を知る

 

27歳になると、自分で『加奈川』という名の置屋を始め、芸者を抱えるようになった。

親方になるとね、苦労の連続。芸子さんを見つける専門の人に頼んで、いい子が見つかっても性に合わなくて逃げてっちゃう子もいる。来れば来たで、みんなお金が欲しいもんで。親のためとか子どものためとかで働くでしょ。働けるようにしてあげなきゃいかん。それに何かあったら全部おかみさんの責任になっちゃう。

 

ある宴会の後、お客さんと榊野温泉に行った子がいて、売春だと疑われて警察呼ばれた。売春じゃいけないの。芸子さんは芸子さんだから。でも、いい人ができれば芸子さんも付いていっちゃうわね。その時は事情聴取で済んだけど、何かあれば抱え主の責任。毎日、どの子がどこのお座敷行っとるかなとチェックした。若かったから、そりゃあ一生懸命だったよ。

 

後藤さん自身、お客さんに好意を持ったこともあったそうだ。

「あの人ならいいな」と思うことはいくらでもあったよ。あんな旦那さんなら持たん方がいいなということもあったよ(笑)でも私は余裕がなかった。引揚者だで、実家の面倒も見ないといかん。置屋やるようになったら、抱えている芸子さんたちのことをちゃんと見てないといけなかったからね。

 

田舎の夜道でも怖がらない

 

時代が少しずつ変わり、スナックやカラオケ、バーができるようになって芸者が少なくなってきた。後藤さんは置屋を6年やった後、置屋と芸者を辞めることにした。

現役時代、踊りを教えてもらっていた師匠に、「名取にならないか」と薦められた。名取になれば自分も師匠になることができる。お座敷のお客さんに「これからは資格の時代になる。とにかくとっておいた方がいいよ」と言われたことを思い出し、日本舞踊と三味線の名取になった。

 

やめるとなったら、待ってましたとばかりに「踊りが習いたい」「子どもに教えてほしい」と言われて、自然にお稽古やるようになっちゃった。お弟子さんが増えてきてね、たくさんおった時もあったよ。公民館で民謡クラブもやった。

 

足助の町なかだけでなく、稲武など遠方にも自分で車を運転して稽古をするために出掛けていった。

昔のことだもんで、車に乗れん人が多いの。お稽古に来てもらうことは難しい。車の運転ができるもんで、頼まれたけど、できんかったら頼まれなかったと思うよ。田舎の方に教えに行けば夜遅くなる。何か出てくると怖がる人もいるけど怖いとは思わなんだ、全然。生きがいだったよ。あれ、若さだね。30代だったもん。

足助の芸者で初めて運転免許を取ったのが後藤さんだった。料理屋の娘さんと2人、マイクロバスに乗って豊田の自動車学校へ1ヶ月通った。

応援してくれた人もおっただよ。「おまんたちが免許取ったら車1台ずつ買ってやるって」お客さんがいた。若かったんだよね、それをまともに受けて。試験に合格した。そしたら、海老屋商店って玩具屋さんが足助の町なかにあるんだけど、その人がおもちゃの車を2台買ってきて、「お前たち、ちゃんと約束だよ」と(笑)

 

免許を取ると、お客さんから運転を頼まれるようになった。

酔っ払ったお客さんからね、「岡崎まで運転してってくれ」なんて頼まれた。運転していくと、片道2時間分の線香代(芸子に支払う料金のこと)がついたんだわ。乗せてって、はいいけど、帰り困るじゃない。後ろからタクシーに一緒に来てもらって、そのタクシーで帰った。ある時、えらい酔っ払っちゃって家がわからないお客さんがいて、警察連れてった。そういうこともあったよ。今考えると度胸あったなって。お座敷に出た後にお客さんの車を運転。若い時だもんでめちゃくちゃやった。

 

師匠を続けてきたことで、たくさんの人との出会いがあった。稲武で芝居のアドバイスをしたり、お弟子さんたちと老人ホームへ慰問に行ったり、大学生に踊りを教えたこともあった。近年では、足助商工会青年部が中心になって、香嵐渓音頭、足助音頭などを8月に踊る会が設けられ、後藤さんが教えた。

 

お稽古行くようになって、そこらじゅう、しょっちゅう行って忙しかったけどね。私が知らん人でも、みんなが私の顔知っていてくれてね。どこにいっても「こないだご苦労さんでした」って。87歳の今でも、病院行くと頭下げられることがある。

 

 

 

守り続けること

 

芸の道を歩んできた後藤さんが、大切にしてきたことは何だろう。

 

怒らないことだね。商売だもん。芸子としてお座敷に出ている時、お客さんが酔って盃や徳利をひっくり返すことがある。そんなことで怒っとったらしょうがない。酒癖の悪いひとはだいたい決まっているから、ぶっかけられてもいいように徳利に水を入れて、首のところに紙のこよりで印をつける。接待する側だから怒っちゃいかん。師匠としても、お弟子さんを怒っちゃいかん。なだめて教える。

 

怒らず、一流のプロ意識を持ち続けながら、職業として芸事を続けてきた後藤さん。
踊り続けること、三味線を引き続けること、唄い続けることの意味をこう感じている。

 

みんなそれぞれの時代の人が想いを込めて踊ったりしてきとるわけでしょ。その時代時代の思い出があるわけ。それを忘れんで残してもらいたいと思うけどね。ずーっと昔からやっとるのを、今だに誰かがやっとってくれるもんで残っている。よお続いとるよね。

 

足助音頭や香嵐渓音頭、わたしはいいと思うよ。あのリズムがね。足助の人たちって割とね、大事にするんだよね。執着心がちゃんとあるんだよ。いいじゃない、守っとってくれてる。

 

重要伝統的建造物群保存地区に選定されて10年。

足助で大切に守られてきたのは、町並みの景観だけではなかった。そこに生きた人々が守り続けてきた芸事という文化。芸に生き、自分の人生の舵を取り続けた後藤さんのような女性がその先頭に立っていたということを知り、本当に誇らしい気持ちになるのはきっと、私だけではないはずだ。

〈参考〉
足助の聞き書き〜山里の暮らしの息づかい〜  発行:豊田市役所足助支所
〈協力〉
豊田市郷土資料館 山田佳美学芸員
豊田市役所文化財課足助分室
地域人文化学研究所(寿ゞ家)

本記事は、重伝建10周年事業の一環で制作しました。ご協力いただいた皆さまに心から感謝いたします。(写真は取材後、関係者で後藤さんを囲んで撮影したものです)

 

きうらゆか

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1979年生まれ。2014年、夫のUターンに伴って豊田市山村地域・旭地区に移り住む。女性の山里暮らしを紹介した冊子「里co」ライター、おいでん・さんそんセン...

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撮影 永田 ゆか

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静岡県静岡市生まれ。 1997年から長久手市にあるフォトスタジオで11年間務める。 2008年フリーランスとして豊田市へ住まいを移す。 “貴方のおかげで私が...

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