• HOME
  • 記事
  • コラム
  • ご飯が尽きない!?お釜のある神社|足助重伝建地区選定10周年コラムvol.3

ご飯が尽きない!?お釜のある神社|足助重伝建地区選定10周年コラムvol.3

コラム

今回は、足助重伝建選定10周年事業実行委員会で『足助の町並みにある紹介したい“モノ”』として取り上げられた中から、お釜稲荷について綴りたいと思います。

実行委員会の方から寄せられた情報は「大きなお釜がある」、「木の木目が狐に見える写真が飾ってある」というものでした。

今回はその巨大なお釜がなぜ祀られるようになったのか、飾られている写真は何なのか、その謎に迫っていきたいと思います。

巨大な釜に祀られたお稲荷さん

謎の巨大なお釜に入ったお稲荷さん

 

お釜稲荷は田町にあります。JAあいち豊田足助支店の横の、赤い大きな鳥居をくぐり、その先の緩やかなカーブを曲がると、右手側に鳥居がみえてきます。そこがお釜稲荷です。

鳥居をくぐり登っていくと直径2mはあると思われる巨大なお釜が祀られており、一際目を引きます。

 

JAあいち豊田足助支店の横の鳥居

お釜稲荷拝殿

 

昔話で語り継がれてきたお釜稲荷

 

足助の町並みにある『マンリン書店』で発行・販売している本『足助の昔話』に、こんな昔話がありました。

今からおよそ700年以上の前のお話。足助の里に一升釜を下げた白髪の老人が現れました。
その老人は村人たちの相談にのりながら、携えていた一升釜でご飯を炊いて皆にふるまったそうで。
不思議なことに、ひっきりなしに相談に訪れる人にご飯をふるまっても、お釜の中のご飯は尽きることはなかったそうです。
不思議に思った村人が老人に尋ねると「わしはこの先三十里離れた山に住む平八稲荷である」と言って去っていったそうです。

それから数百年後、足助の領主となった本多淡路守の夢枕にその老人が現れました。(※淡路守とは、主として戦国期から江戸期にかけ武士が任官または自称した官位(官職と位階)のひとつ)

老人は、「わしは平八稲荷。これから足助の村人たちを助け、守っていくのなら力を貸そう。我が釜を探し出し祀られよ」と行ったそうです。
翌朝、本多淡路守は平八稲荷を知るものを訪ね歩き、ついに釜を見つけ、本多家の守り神として陣屋の庭に大切に祀ったそうです。

 

その後時代が下って明治の初め、領主であった本多家が足助を去るときに、陣屋から足助山へと移され、
今ある場所には1955年に移されたとされています。

足助陣屋

看板左上の神社マークが稲荷社

 

本多淡路守とは

 

本多淡路守忠周(ただちか)は、徳川家康を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝(ただかつ)のひ孫にあたる人物です。
本多忠勝の長男忠政(ただまさ)の三男忠義(ただよし)の五男で、足助本多家の初代といわれています。

生まれは陸奥白河(現福島県)で、賀茂郡足助村に徳川幕府(今でいう政府)直轄の行政機関である陣屋(現在でいう行政・警察・司法の役割を担った機関)を置き、7000石の交代寄合(江戸幕府における旗本の家格の一つ)となりました。

1683年、寺社奉行(江戸時代の行政機関、自社の領地や建物の管理、僧侶や神官のことを取りまとめていた)に就任したことから3000石の加増を受け、それまで徳川幕府の一役人だったのが一万石の大名(今でいう都道府県知事みたいなもの)へと出世し、足助に移り住み、足助藩を立藩しました。

本多淡路守忠周はいくつかある本多家の分家の本多平八郎家を称しており、もしかしたら名前が似ていた平八稲荷の噂を聞き、足助の民たちの心をつかむためにお釜を祀ったのかもしれません。

※石高について
当時の日本は、その土地の生産性を石(こく)という単位で表しました。1石の目安は大人が一年に食べるお米の量に相当されます。これを兵士たちに与える報酬(今でいう給料)にみなすと、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになり、大名の財力や兵力を意味していました。また、石高によって下記のようなランク付けがあります(諸説あり)。
▼▼お城が持てる大名▼▼
国主(国持大名):1国以上を領有する大名家。 加賀の前田家など。
准国主:国主に準じる大名家。 柳川藩の立花家など。
城主(城持大名):概ね3万石以上の石高を持ち、城を持つことを許された大名。
▼▼お城を持てない大名▼▼
城主格:大きな藩から特別に独立した大名や陣屋から城主の格式に昇格した大名。
無城(陣屋大名):小さな藩の大名で、藩庁として陣屋しか持てなかった大名。

 

時代を超えて足助を統治した本多氏と鈴木氏との意外な関係

 

戦国時代(1460年頃~1590年)、足助を治めていたのは鈴木氏です。鈴木氏は徳川家康の部下となり、家康の関東入国に付き従いました。しかしその直後、処遇に不満を持ち、家康のもとを去り浪人になったと伝えられています。

その理由について諸説ありますが、一説によると、家康直属の部下だと思っていたのに、家康の部下の本多忠勝の部下にされ、不満に思ったとのことです。

時代が下り、その不満に思った原因の本多忠勝のひ孫が足助を統治することになるので、なんだか不思議な縁を感じます。

鈴木氏の居城、足助城

足助城から足助陣屋を望む

 

拝殿に飾られている謎の写真

 

拝殿に飾られている写真は、拝殿から500メートルほど登った先にある足助山の本殿のご神木の写真だそうです。今から50年ほど前に、苔が狐の形に現れて、撮影されたそうです。

50年ほど前に撮られたということで、現在そのご神木は、残念ながら残っていないそうです。

上2枚は本殿に続く参道


本殿入口

本殿

 

30年ほど前までは主に田町の人達が本殿でお祭りをしていたそうですが、高齢化に伴い、険しい山道を登ってのお祭りが難しくなってしまいました。今では年に2回(春の初午の日と11月5日)お祭りを麓の拝殿で行い、お汁粉などが振舞われるそうです。

 

かわいいお釜稲荷のおみくじ

 

今回の取材にはお釜稲荷の会計係を担当されている宇井昭二さんにご協力をいただきました。

宇井さんが店主をしている「写真のつかさ」ではかわいい狐のおみくじを引くことができます。ぜひ参拝の折には立ち寄ってみてください。

 

 

 

鈴木悠太

762 views

1985年生まれ。2017年より新盛地区に障がい者福祉施設を立ち上げ、この地域だからこそできる活動を通し、病気や障害があっても安心して暮らし続けられる地域づ...

プロフィール

ピックアップ記事

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA