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ガラ紡との再会|おじいちゃん、おばあちゃん、わたしもガラ紡やります!第1回

コラム

「ガラ紡」。

この言葉をきいて懐かしく思い出される方は、豊田市松平地区に何らかのゆかりがあることでしょう。多くの方は「ガラ紡って?」と疑問に思われるかもしれません。

ガラ紡とは、綿を糸に紡ぐ紡績機械です。

「和紡績」ともよばれます。明治時代に長野県安曇野の臥雲辰致(がうんたっち)が発明しました。1877年(明治10年)の第1回内国勧業博覧会で最高賞を受賞。三河地方は江戸時代には国内有数の綿の産地であったこともあり、特に松平盛んに紡がれました。

私のルーツをたどると、1897年(明治30年)から3代続100年を超えて紡いでいました。主に、ふきんや足袋、軍手などに使われたと聞いています。

↑豊田市近代の産業とくらし発見館所有のガラ紡

ガラ紡の特徴は、手つむぎの風合いです。紡ぐときに「ガラガラガラ」と音がするので「ガラ紡」と呼ばれています。筒が上下に動きながら、回転と停止をくり返して、やや太めの、ムラのある糸が紡がれます。撚り(より)も強くありません。

ガラ紡の動力は、水車でした。祖父母の工場では、松平地区の山あいを流れる滝川の急流を利用していました。私が物心ついた頃には電力で機械を動かしていて、「ガラガラガラ」という大きな音が山あいをこだましていました。

機械のリズム、綿ほこりと機械油の混じったにおい、山と川沿いの水車の風景など、ガラ紡糸には里山のぬくもりがぎゅっとつまっています。

松平地区では、全盛期には400軒を超えるガラ紡工場がありました。戦後の産業が自動車へ移り、外国産の糸に需要が集まるなか、多くの工場が廃業をよぎなくされました。

今では豊田市でガラ紡は営まれていません。祖父母の操業も2000年まで。全国ではわずか数える程しか営まれていません。もはや、ガラ紡は資料館に展示されるような「過去の遺産」とされています。

 

名古屋から松平へ

 

もともと名古屋市に住んでいた私たち家族。ガラ紡工場は母の実家でもあり、松平の里山に幼いころから親しみと思い入れがありました。廃業後、じきに祖父母が相次いで亡くなり、松平に住むものはいなくなりました。そこで、松平地区の大給(おぎゅう)城址という国指定史跡のふもとにある、代々の土地に移り住む決意をしました。

 

えっ! ガラ紡が再び注目?

 

2012年のゴールデンウィークのときでした。

 

移住の計画にとりかかった頃、犬山市の博物館明治村へ行きました。明治村には、明治時代の建築物が移築されており、当時使われていた産業機械が展示されています。そのひとつに、曽祖父のガラ紡機があります。「松平に住むなら、ガラ紡機でも見にいこうかな」。そんな軽い気持ちで小学生以来30年ぶりに明治村を訪ねました。

 

展示場所は、鉄道寮新橋工場(機械館)。当時使われていた大きな機械が展示されているなか、小型のガラ紡機は建物の隅に展示されていました。懐かしくガラ紡機をながめていると、展示説明プレートが青く輝いています。『近代化産業遺産』と書かれています。経済産業省から、日本の産業近代化に貢献した機械として認定されています。

そんな事実に驚いていると、たまたまボランティアガイドさんによる説明がはじまりました。ガイドさんは建物内の一つひとつの機械について、いかに日本の近代を築いたかを熱く説明していました。

いよいよガラ紡機へ。ガイドさんが開口一番「みなさん、これが再び注目されるようになったガラ紡機です。今の時代に見直されています」。そう切り出します。「えっ! 注目? 見直し?」。説明に前のめりになりました。

なぜガラ紡が注目されているのか。ガイドさんによれば

 

ガラ紡機は綿の性質を利用した優れた機械であること、
②日本で発明された独自の機械であること、
③水車を動力にしていたこと、
④糸の仕組みを子どもたちに伝えるためにわかりやすいこと、
⑤手紡ぎの風合いがでオリジナルの糸ができること、
⑥ファッション界でも注目を浴びていること、
⑦エコがいわれる時代に電力をあまりかけずに一度に多くの糸が紡げること。

 

ガイド終了後、「見学されているみなさん、このガラ紡機はうちで使っていたものですよ」と周りの一人ひとりに自慢したくなりました。

高ぶる気持ちのままガイドさんに声をかけました。

「私の祖父はガラ紡を営んでいました。このガラ紡機の寄贈者は私の曽祖父です」。驚いたガイドさんに真っ先に聞かれたのは「今、ガラ紡の機械はどうなっていますか?」私からは、すでに操業はやめていること、ガラ紡機や水車は資料館に渡ったときいていること、工場の跡地は更地になっていることを話しました。

 

ガイドさんは「それはとっても残念だ。こんな優れた機械なのに、今はガラ紡機がどんどん消えています。」と悔しがります。ガラ紡の孫として、なんとも申し訳ない気持ちになりました。と同時に、ガラ紡の音、水車と風景、建物のにおい、ガラ紡糸のぬくもりが一気に寄せてきました。言葉で説明できない感情が急にわき、「私に何かできないのか」と体に電気が走りました。

 

次の時代の価値に光をあてて

 

しばらくは移住の準備と並行して、各地のガラ紡工場や全国の資料館を訪ね、関係する方々にお会いしました。ガラ紡にかかわる書籍も読みました。祖父母をご存知の方から当時のエピソードをうかがいました。写真や資料には祖父母や松平のガラ紡工場が多く記録されていました。メディアにも取り上げられていました。ますます、自分にはガラ紡DNAが紡がれていると感じました。

 

豊森なりわい塾に入塾して、里山で生きる作法を学びました。卒塾テーマは『X年後の私』。ガラ紡をなりわいにした里山暮らしをまとめました。すでに工場も機械もない。「どうしたらいいのか」が見えないままでの報告でした。私の報告に塾長の澁澤寿一さんから「ガラ紡は今後必ず注目される。今から、ヒト・モノ・カネについて考えておくように」というアドバイスをうけました。とはいえ、思いばかりが先行して、具体的なガラ紡の展望を想像できずにいました。

 

2014年春、娘の小学校入学と同時に松平へ移住しました。当時、豊田市で唯一稼働していた松平地区のガラ紡工場も操業を終えていました。「次の時代の価値に光をあてたガラ紡を始めたい」。豊田松平で里山暮らしするにあたり、私のライフワークにしようと決意しました。

 

逢うべき糸に出逢いたい

 

ガラ紡を始めるにあたって、中島みゆきさんの唄『糸』が心にしみるようになりました。

 縦の糸はあなた 横の糸はわたし

 逢うべき糸に 出逢えることを

 人は 仕合わせとよびます

 

松平での里山暮らしは8年目になりました。縁あってローカルメディア縁側さんにガラ紡のコラムを書くこととなりました。まだ始まったばかりですが、ガラ紡と綿のつながりが様々生みだされています。これまでどんな出逢いがあり、これからどんな出逢いをしたいのか。綿や衣服をめぐる現状、松平での里山暮らしのあれこれをコラムでみなさんにお伝えしていきます。

 

追伸

このコラムを開始にあわせたかのように、豊田市喜多町の「豊田市近代の産業とくらし発見館」で企画展『綿から糸への物語-とよた市域のガラ紡-』が開催中です。どうぞ本物のガラ紡機や水車をご覧ください。

 

野々山大輔

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1971年生まれ。2014年に名古屋から松平地区へ移住。明治時代より続いたガラ紡工場の孫(工場は2000年に廃業)。大給城址のふもとで里山暮らしをしつつ、ブ...

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